◆与える 手放す 待つ / なぜ挨拶は必要か?(第151話) [人材育成]
◆事実の記録1「消えたカップ麺」 震災直後。普段はかごいっぱいラーメンが詰まっています。
未曽有の大災害の発生から3週間を過ぎました。
余震は続き、原発の被災は止まらず、予断を許さない状況が続いています。
4月になり、新年度に入りました。
私は多くの仕事を東京はじめ関東方面から頂戴しています。
今回は営業会議で東京出張に参りました。
仕事のパートナーでもある50代の男性と一杯やっていたとき。
彼は平素のんびりしていることで有名です。
一通り会話のキャッチボールが終わって、沈黙の時間になったとき。
突然、堰を切ったように恐怖の体験を語りだしました。
テレビのチャネルが突然変わったようでした。
「揺れて、揺れて本当に怖かった…」
私はそれに相槌を打つしかできませんでした。
しかし、一気にしゃべりきったその人はすっきりした表情になりました。
それで良いと思いました。
恐怖の記憶が溜まっていたのでしょう。
大人や子供や年寄やらは関係ありません。
怖いものは怖いのです。
それを溜め込んでしまうことで、後々、心身のどこかに影響が出ます。
同様の状況に、今回の被災者の方々はおられると考えられます。
ですので、物質面の援助と同時に精神面の援助が必要なのです。
共感意識に長けた人はそれらを無意識のうちに判断し、決断し、行動します。
共感意識の苦手な方は相手の心の本質に近づくことがなかなかできません。
その理由の一つとして、足りないものを追う“課題解決思考”を挙げます。
つまり、穴埋め思考の人はその傾向が強いと考えられます。
足りないものを追う「穴埋め行為」が、相手の心を揺さぶり、さらに穴を広げてしまう。
そんなジレンマに陥っていることを、課題解決志向の人は理解できません。
相手の現状を丸ごと受け止め、溜まっているものを吐き出させる。
それが共感意識の重要点のひとつです。
私自身が共感意識に長けている云々は本稿では愚問です。
私は、無意識に判断し、決断し、行動する能力が高いとは言えません。
人間関係で苦しみながら、これまで歩んでまいりました。
しかし、その中でも学んだこと。
時には引きこもる場面も大事。
時には人を避ける場面も大事。
その場面転換の末、今という時間では積極的に人と関わることが大事だと感じます。
それは試行錯誤しながら、体得するしかないと考えます。
関われる人がいることを幸せと思えるようになるには長い年月が必要でした。
人は自分で自分を乗り越える力があると考えています。
それは、人は過去に生きるべきではないことを意味します。
無論、温故知新的な思考は大事です。
でも、過去に支配され続ける人生は、その人の本来ではないと思います。
アクセルとブレーキを同時に踏み続けているようなものです。
その解放には、誰かがきっかけを与え、寄り添うことが必要なことに気づきました。
◆事実の記録2 「消えたシリアル食品」 震災直後。
実際、日々報道される被災地の情報に対して、“何かしなきゃ”と思う人は多いでしょう。
今回の地震や津波を体験された方は、足りないもので一杯です。
他方、足り過ぎているものもあります。
それは、「断続的に続く揺れ」や「襲いくる津波」での恐怖の記憶や不安の増幅です。
恐怖と不安の違いについては、毎度申し上げていますが、次の通りです。
恐怖 … 恐れる対象がはっきりしている。
不安 … 恐れる対象が漠然としてはっきりしない。
論理的には、恐怖のほうが対峙しやすいです。
不安はどうしようもありません。
ややもすれば、自死に追い込まれることもあります。
募金するのは素晴らしいことです。
物品を送るのは素晴らしいことです。
ボランティアとして、復興作業支援を行うのは素晴らしいことです。
でも、いろんな事情で今の場を動けない人もいるでしょう。
電話一本、メール一通、それだけで十分です。
是非、送ってあげていただきたいと思います。
溜まっている恐怖の記憶や不安の増幅を緩和すること。
それだけでも重要な役割を担えます。
◆事実の記録3「消えたパン」 震災直後。
すなわち、何が足り過ぎていて、何が足りないのか?
本来は物品が満足すれば、心も満足するはずなのに。
貧乏な時代のほうが、心が通い合っていた…
なんでこんなことになったのでしょうか。
ここで考えるのは、戦後の日本教育。
そこで重要視されたのは、延々と続く目標に対して、足りないものを埋める思考でした。
それは勿論、進んだ欧米へ追いつけ追い越せ精神が元であり、それ自体は否定しません。
ただ、未だに、幸せになるための条件をあげつらっているのはどうでしょうか?
例えば、三種の神器、掃除機、洗濯機、テレビは時代を変えて、提示され続けています。
終わり無きパン食い競争の人生に参加することを強要され続けてきました。
つまり「取る」「つかむ」「攻める」行為に長けることを賛辞してきたと思います。
その反面、「与える」「手放す」「待つ」という行為にはあまり触れてこなかったと思います。
その偏った思考体系は、勝ち組や負け組といった幼稚な言語を生み出しました。
「頑張りすぎない」「あきらめさせてくれない」といった不可解な言葉も登場しました。
初めからスタート地点に立つことを拒否する姿勢を私は共感できます。
だって、上のほうは既得権を握りしめた人でがっちり固められているのですから。
本質ではなく、上澄みの奪い合いに熱中し、行き詰った感のあった日本。
人差し指の操作ひとつで一喜一憂するような大人たち。
歴史は繰り返されると思い込んだら、悲観的ループに入ります。
しかし、今回の原発事故に象徴されるのは、ワンストライク・アウトの危険性。
ネット社会は喜びも悲しみも制御不能なくらいに伝播します。
物事には全て裏表があるという原則を忘れてはならないと思います。
与える 手放す 待つ
見直していきたい言葉だと考えています。
ではまた~m(__)m
今回の地震は何かを見直す契機になったとも言えますね。
誰しもがグッドバランス さんと同じことを考えていた筈です。
それでも誰も言い出せなかった。
が、一度方向性が決まれば日本人は強いですよ。
by えがみ (2011-04-08 00:47)
>えがみ様
こんにちは! いつもありがとうございます。
>が、一度方向性が決まれば日本十は強いですよ。
仰せの通りですよね。
神の試練は続いています。
我々は物事の多面性、少なくとも二面性を学ぶべきだと考えます。
美味しい話の裏には、何かある・・・
便利や安全を謳う裏には、それが失われた場合のりクスは大きい・・・
by グッドバランス (2011-04-08 20:19)