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◆なぜ挨拶は必要か(第22話) 自己肯定感⑨ 東西のコトバ [人材育成]




前回までの
流れを簡単に
まとめますと・・・


なかなか
自分の未来が開けない、

何をしてもうまく行かない、

スランプから脱出できない・・・


そんな悩みを抱えて、
その解決のために
コーチングやNLPを学んでも
効果が無い場合、その原因は、
自己肯定感の低さ(無さ)にあります。


それが解決されないまま、
ワークなどをしても、
現実(自分)と
理想(夢や目標)の乖離が進み、
一層、逆効果を引き起こします。


一方、
遅刻、引きこもりなどの
“問題”行動がある場合、

(問題かどうかは、当事者の認識しだいですが、
 ここでは、何とかしたいのに出来ないという
 状況で読み進めてください)


それは、
マズローの仮説(成長五段階)によれば、
元来満たされてこなかった「安全・安心」に
浸りたいという「目的」があるからです。


アドラー心理学の要諦です。


しかし、
それはユング・フロイトの言う
「原因」でもあります。


ですから、
自己肯定感を向上するには、
その「目的(原因)」を直視し、
短時間で集中的に解決することが
第一ステップです。


とまで、
やって来て、
前回、


自己肯定感の低さの原因は、
「安心、安全」を満たされずに
ここまで来てしまった。

特にその人が触れてきた
コトバに原因が多分にあります。

とまで、やって来ました。



短時間で集中的に・・・は
Y先生の研修コンテンツの要諦です。

後で順を追って説明します。



今回は、
コトバについての考察です。


NLPが開発されたのは
アメリカで1970年代のことです。


日本へは2000年前後に
広まり出しました。


コーチングもちょうど
それくらいですね。


上陸するのに、
なぜこんなに
時間がかかったのでしょうか。


また、
なぜなかなか
浸透しないのでしょうか。


私自身も
NLPやコーチングには
深い興味や関心を持っています。


研修にも多く参加しました。



浸透しない原因。


それは、
東洋と西洋のコトバの
認識の違いが決定的だと
思っています。


英語のNLPやコーチングを
そのまま“翻訳”して研修を行っても、
効果は低いと思います。


知識欲旺盛、
研修マニアのような方には
良いでしょうが、
悩みを抱えている方の
解決にはなりません。


それは、
東洋人である我々だからこそ
気づくことかもしれません。



つまり・・・

西洋、キリスト教文化圏では
人間はもともと罪を背負っている
という前提があります。


しかし、
神を信じることで、
罪は許され、
天国への道が開かれます。


その唯一の道がイエス様・・・


というストーリーです。


天国か地獄かの直線思考です。


そして、
コトバを持つということが
非常に重要視されます。


「コトバ」=「高等」
という考えがあります。


コトバを持つことが賢い!


捕鯨反対に通じる考えです。


西洋では、コトバは記号です。


英語でいえば、
26のアルファベット記号で
世界を表そうとします。


それは「ルール」です。


西洋では、
コトバは共通の厳格なルール
なのです。


ですから、
製品の品質表示、
ブランド名、
規格、
契約、
法律、
公文書、
ワインのラベル
などなど、
そこに書かれているコトバは
非常に重要です。


サインは
絶対的な意味を持ちます。


文明開化の時、
怒涛の如くこれらの
“価値観”を目の当たりにした
明治の人々の驚きは
我々の想像を超えていると思います。


一般庶民は「黒船」という
モノに度肝を抜かれたでしょうが、

知識人や支配階級は
「コトバによる支配」に
度肝を抜かれたのです。


新しいものを取り入れるのが
得意な日本人はすぐに飛びつきました。


そして、
それを理解できない
支配階級の人々が
没落していったのです。


しかし、
和洋折衷のおかしな形での輸入ですが。



これに対して・・・

東洋では、
人間が罪を背負っているという
考えはありません。


性善説や性悪説という
アイデアが出るくらい、
人間の本質についての
特定のイメージはありません。


ただ、赤子や子供には罪はない
という考えから“推測”すると、
人間の本質は“善”というのが
一般的ではないでしょうか。


罪を憎んで人を憎まず、
穢れを清める、
水に流す
というアイデアもそうですね。


成長するに従って、
汚れに塗れていく
という考え方です。


西洋では
コトバを持たない赤ちゃんは
「未完成」の扱いです。


東洋では、
赤ちゃんは、
神になることもあります。

東洋では
コトバは事物に
張り付いています。

象形文字のゆえんです。


以前の話した“気”も、
お米を炊く湯気を“見立てた”形を
そのまま表したものです。



西洋では、コトバは
事物を支配していく
「道具」「記号」であるのに対して、

東洋では、コトバは
世界そのもの、しかも、
その人のイメージに合わせて増えていきます。



特に日本ではコトバは絶対的な意味を持たない、
と考えざるを得ません。


油揚げの入ったうどんは、
なぜか、キツネうどんと呼ぶのです。


本物のキツネが入ったうどん
(あるわけないですが)を
想像する日本人はいないでしょう。


しかし、
パソコンの自動翻訳に
「きつねうどん」
と入力してみてください。


FOX UDONって出ますよ(笑)


また、
会社の役職でも、
意味不明なのが多いですね。


顧問、特別顧問、最高顧問、代表、特別代表、主幹・・・?

その企業・団体の中では
序列化されていても、
隣の会社では全く違った
扱いや認識であることも多いです。

それは、
そのコトバ自体に意味があるのでなく、
役職名を付けることが第一義にあるからです。

そして、
本音では役職名と人物の一致は
それほど重要視されません。


西洋ではある「役職」から発信された文書は
絶対的な命令として機能し、対処されます。

逆に、日本では“テキトーな”扱いをしますし、
雰囲気を“察知して”対応します。



さて、私はここで、
西洋、東洋のどちらがいいか
という議論をしたいのでは
ありません。


東洋も西洋も
コトバの認識は違うのに、
それぞれ社会が成立し、
人々がそこで
生活を営んでいます。


それは事実です。


そして、中東、
その他の文化圏でも
独自のアイデアや
価値観があることでしょう。


日本には、
長く続く
皇室の存在もあります。



つまり、
どこが良くて、
どこが悪いか、
ということではなく、

絶対的に正しい社会、
などなくて、
いろいろなやり方、考え方があるんだ、
ということを気づいてほしいのです。


西洋と東洋は
“対立”“正反対”の
概念でもありません。


質が違うのです。


神様が怒って
コトバをバラバラにしたという
旧約聖書の物語は“後付け”です。


人は分かれていく過程で、
コトバも分かれていったのです。


それは、
彼らが接した自然環境とも
大いに関係しています。


氷の世界で生きる人々、

砂の世界で生きる人々、

草原で生きる人々、

海で生きる人々、

山で生きる人々、


我々が生きている世界は
どうでしょうか。


次回は、
東洋人の我々が、
自己肯定感を向上するために、
行動習慣からの
アプローチを考える上で、
ひとつのアイデアをご紹介します。


なお、行動習慣から攻めるのは、
思考習慣や感情習慣を
変えるのが難しいからです。
(以前の記事をご参照ください)


(続く)


★ 今日の一冊 ★

こころ 夏目漱石

夏目漱石は
大好きな作家です。

西洋の文化に直接
触れた文豪のひとりです。

その中でも、
日本人らしさを
忘れないというのか、
それがカウンターとして
自己を見つめなおす
きっかけとして利用(作用)した
代表人物だと思います。

本作“こころ”には、
自決するひとたちが登場します。

人が“自分”を意識した時、
自分とどう対峙するのか?

それは明治になって初めて
体験する感覚だったのでは?

自分を理解すること、
自分探しは、
このあたりから
はじまったような気がします。

いかがでしょうか。

今なお、
氏の作品は
古びることはないですね。

こころ (新潮文庫)

こころ (新潮文庫)

  • 作者: 夏目 漱石
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1952/02
  • メディア: 文庫



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