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◆なぜ挨拶は必要か(第37話) 自己肯定感(24) 言葉はカス [人材育成]




前回は、
自分の置かれた状況に
疑問を抱かない生き方の
末路として、3つの例を
中国古典(荘子)から
紹介しました。


例のひとつは、
私の友人からのメールを引用し、
“豚にたかる虱(しらみ)”
として紹介しました。


今、自分が属している集団、
住んでいる地域、そして自分自身
について疑問を抱かない生き方。


我々は
電気による情報化社会が、
どのような影響を我々に及ぼすのか、
きちんと理解する機会を
経てこなかったように思えます。


インターネットや携帯で
“つながる”
とはどういうことなのか?


現在、莫大な富を得ている人は、
情報化社会の在り方を学習したり
センスで感じとったりしている方々でしょう。


ある意味、その人たちは
環境に順応しています。


逆に、
滅びて行く人はこんな人です。


他人に対して、
反抗できなかったり
おとなしかったり、
素直であったり、
疑問を呈さなかったり。


結果的には食い物にされます。


これからは
全員参加の時代になります。


私は、
かつての村落共同体のような
生活形態が復活しつつあるような
予感がします。


その特徴は、
何人も傍観的な位置でいることは
許されないということです。


ネットで展開される
様々なコミュニティは、
お互いに顔を合わさないが、
明らかに協業です。


ルール違反すれば、
“村八分”です。


面白い現象があります。


人は、
いかなる状況でも、
自分を蚊帳の外に置く
傾向があります。


それが自分自身の生命を
脅かす事態であってもです。


例えば、
自然災害が発生し、
避難勧告が出ているにも関わらず、
家に居続ける人。


例えば、
地下鉄内で火災が発生しているのに、
そのまま座り続ける人。
(実際の事故でそのような映像がありました)


例えば、
新興宗教にハマって、
大事な財産を失い続ける人。


“私だけは違う”

“私だけは大丈夫”

という根拠の無い価値観が、
その人の命を奪います。


“ここにいれば安全なんだ”
という思い込みは強烈です。


無論、
本来はそうあるべきです。

国や地域や家族や会社やら・・・

安心して居たいですよね。


でも、
実際に時代は動いています。


“電気”は、
我々のコミュニティのあり方を
揺さぶり続けるでしょう。



本ブログでは
中国古典を多く引用していますが、
私は、
それがすべて“正しく”“絶対的”
とは思いません。


キリスト教の聖書にも
良い言葉はたくさんあります。


新興宗教にも
良い教えはあるでしょう。


ところが、
中国古典に親しむ人にとっては、
キリスト教は新興宗教です。
新興宗教は眉唾ものです。


キリスト教に親しむ人にとっては
中国古典は古臭いし、
新興宗教は眉唾ものです。


新興宗教に親しむ人にとっては、
中国古典やキリスト教は古臭いです。


つまり、
どれもこれも
絶対的なものはないのです。


ただ、共通しているのは、
自然との共生、調和です。


なぜ、
キリスト教のクリスマスがこの時期、
つまり冬至に“設定”されたのか。


それは“冬”が新しい時代の幕開け
を暗示しているからです。


季節とともに暮らしていた
昔の人にとっては
“無言”のメッセージでした。


そういう自然の移ろいについて
鈍感になった我々は気づきません。


中国古典も
キリスト教も
新興宗教も
何でもかんでも
自らの正当性を訴えます。


それは
人間が介在する限り、
正しくもあり、
正しくないこともあります。


また、
言葉に囚われすぎるのも
どうでしょうか。


それらの教えが
“文字”で表わされている限り、
本来の教えのカスのようなもの、
という考え方もあります(荘子)


原理主義者の問題点は、
先人や指導者の教えを
金貨玉条のごとく
全うしようとすることです。


そこにはもはや
“主体性”はありません。


今、私たちが学ぶべきことは
自分なりの哲学を持つ
ことではないでしょうか。


無論、生まれた時代、環境で、
ある程度のベースが否応無しに
刷り込まれるのは仕方ありません。


しかし、
自分らしく生きて、
望む結果を
得られなかったとしても、
悔いはないと思います。


でも、
ああしておけば良かった、
人に振り回された、
感情に振り回された、
というのは、
悔やんでも
悔やみ切れないことではないでしょうか。


平均寿命から考えれば、
超高齢化社会なりの
生き方を真剣に
論ずるべきはずです。


特に、人は、
一人では生きていけない生物ですから、
より一層コミュニケーションの大切さを
知らなくてはならないのです。


私は、
日本人はグローバル
だと思います。


外国人に道を尋ねられても、
一生懸命身振り手振りで頑張ります。


無視したという話は
聞いたことがありません。


古くは仏教というソフトを始め、
多くのコト、モノは輸入だし、
それらをアレンジする能力は
卓越しています。


しかし、
島国的価値観が頭をもたげるとき、
日本人の自己肯定感は下がり、
自虐的行動へと
向かってしまうのです。


こんな素晴らしい国は無いのに。


続きます~



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コメント 4

えがみ

自身を蚊帳の外に置くのは、まぁ、勝手にしろと言いたいところですがルールだけは守ってもらいたいものですね。
緊急車両を避けない人、赤信号なのに交差点へ突っ込む人、歩道に人がいるのにギリギリまで突っ込む人。
何故そんなに急いでいるのか、といつも思います。

by えがみ (2009-12-19 23:52) 

グッドバランス

>えがみさま

 全く同感ですね。

 特にチビを連れて歩いているときには本当に怖いです。

 実は小生と息子は、今年2回交通事故に遭いました。

 不思議なのは、急いで交差点を突っ走り、ブレーキをかけて
 その先の赤信号で停まる。

 人間の行動って合理的では無いですね(笑)

by グッドバランス (2009-12-20 21:40) 

えがみ

何と!
それは災難でしたね。
最近、若者の自動車離れが報じられていますが、こうした行為が負のイメージを抱かされているのかもしれません。

歩道が殆ど無い狭い道は怖くて歩けないです…。
by えがみ (2009-12-22 00:06) 

グッドバランス

>えがみさま

 歩道のど真ん中に電柱が
 居座っていることもありますよね。

 行き過ぎた島国の生活は、
 自然と、揺り戻しの時期に
 入ったのかもしれません。

 狭い日本、そんなに急いで・・・

by グッドバランス (2009-12-24 02:30) 

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